テトラの本棚③梶井基次郎『冬の日』


 梶井の遺した小説はそのほとんどすべてが秀作と呼ぶにふさわしいものだが、一作選べとなるとやはり『檸檬』を推す声が多いだろう。しかし、個人的な好みは『冬の日』である。たしかに鋭利な思想はないけれども、簡潔で鮮やかな比喩、精密な助詞の配置、回想、過去形の反復、これらを特徴とする梶井の文体の完成という点では『檸檬』さえ凌ぐのではないかと考える。この小さな傑作は、繊細な冬の風景描写と、微熱に浮かされたような独特の破滅的思索の完璧な融合である。

 

 暗い冷い石造の官衙の立並んでいる街の停留所。其処で彼は電車を待っていた。家へ帰ろうか賑やかな街へ出ようか、彼は迷っていた。どちらの決心もつかなかった。そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。圧しつけるような暗い建築の陰影、裸の並木、疎な街灯の透視図。━━その遠くの交叉路には時どき過ぎる水族館のような電車。風景は俄に統制を失った。そのなかで彼は激しい滅形を感じた。

『冬の日』

 

 

 過去形の反復で描かれているのは眼前の現実ではなく、記憶のなかの風景の残滓である。「そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。」彼が心から待っているもの、それは健康か、幸福か、あるいは現実の閉塞になにか風穴を穿つ些細なきっかけのようなものかもしれないけれども、ここでの電車は、そうした待てども待てども来ないすべてのものの象徴である。(少なくない読者がゴドーを連想するだろう。)「暗い建築の陰影」が「圧しつけるよう」に感じられるのは、きっと、この「待てども来ない」状況に伴う心の重さゆえだろう。そうして薄情な現実が心に圧力をかけるとき、眼前の風景は「統制を失」う。「彼」の目に触れる並木、街灯、電車のいずれもが、何かを待っているときに視界の端に存在するものである。それらはあくまで風景の一部であり、ふだん我々はそれらを仔細に観察することはしないけれども、もしかしたら、風景というものは、意識的に観察されてはじめてひとつの明なる像に収斂するものなのであり、誰にも意識的に見られていないとき、それは不安定なゆらぎのなかにあるのかもしれない。そのゆらぎのなかでは、並木は「裸」に、街灯は「疎な」「透視図」になるのだろう。物体は形や数を曖昧にして、色彩はほとんど失われる。おそらく、「彼」が見ていたのは無意識の風景である。「彼」の心はそれほどまでに衰弱しきっている。そういう者にしか見えない、世界の間隙がある。梶井は、自身が「現実に」幾度も目にしたこの「非現実」の風景をどう形容したものか熟考したかもしれない。そして、形や色や、なにかイメージを具象させるものはすべて不適当であると思い至り、ついには「滅形」という存在しない言葉を、その風景につけるべき仮の名として選んだのかもしれない。

 

 彼が部屋で感覚する夜は、昨夜も一昨夜も恐らくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。そこでは古い生活は死のような空気のなかで停止していた。思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛を合わせたまま埃をかぶっていた。夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。それを見るときにだけ彼の心はほうっと明るむのだった。

 

 空気は死そのものに喩えられ、書物は思想そのものに置換されたのち、正気のない壁土に喩えられる。そして、「壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛を合わせたまま埃をかぶっていた。」ふつうならば「十月二十何日の午前三時に目盛りを合わせたまま」とでも書いてしまいそうなところを、梶井は「午前三時が十月二十何日に目盛を合わせたまま」と書く。つまり、星座早見表ではなく「午前三時」を主語に選んでいる。埃をかぶっているのは物体として形をもつ星座早見表ではなくて、「彼」がいつか星を見た「午前三時」そのものなのである。「彼」の夜において、形を持つものと持たないものの境界が曖昧になるのは、「彼」の現実に対する感覚が次第に鈍くなっているからである。しかし、そんな憂鬱のよどみのさなかにも、「月光のような霜」の絶対の美しさは見出される。

 

 固い寝床はそれを離れると午後にはじまる一日が待っていた。傾いた冬の日が窓のそとのまのあたりを幻灯のように写し出している、その毎日であった。そしてその不思議な日差しはだんだんすべてのものが仮象にしか過ぎないということや、仮象であるゆえ精神的な美しさに染められているのだということを露骨にして来るのだった。枇杷が花をつけ、遠くの日溜りからは橙の実が目を射った。そして初冬の時雨はもう霰となって軒をはしった。

 

 「彼」にとって現実とは美しい仮象に過ぎない。輪郭のない、淡い風景のなかに、枇杷の実の橙がたったひとつの確かな色彩として冴え渡る。(言うまでもなく、画本の山の上に置かれた檸檬を想起させる)。「水族館のような電車」や「月光のような霜」もそうだが、曖昧な風景のなかで何かひとつのものに焦点を当てることにおいては梶井の右に出るものはいない。そしてそこには必ず秀逸な、忘れがたい比喩が伴う。

 

2023.12.8

テトラの本棚②横光利一『花園の思想』

 

 

 

 彼は暫く、その眼前に姿を現わした死の美しさに、見とれながら、恍惚として突き立っていた。と、やがて彼は一枚の紙のようにふらふらしながら、花園の中へ降りていった。

『花園の思想』

 

 小説を一編だけ天国に持っていけるならこれを選びたい、それほど美しい短編である。はじめから終わりまで一文字の隙もない過剰なまでの技巧の結晶、詩にもっとも漸近した小説といってもいい。

 

 丘の先端の花の中で、透明な日光室が輝いていた。バルコオンの梯子は白い脊骨のように突き出ていた。

 

 花から突き出る脊の骨。骨が花に囲まれる光景に人が死を想起するのは、それが抽象化された埋葬だからだろう。バルコオンという文字の並び、響きにすら、絵画のような立体感がある。

 

 

 彼は妻の病室のドアーを開けた。妻の顔は、花瓣に纏わりついた空気のように、哀れな朗かさをたたえて静まっていた。

 ━━恐らく、妻は死ぬだろう。

 彼は妻を寝台の横から透かしてみた。罪と罰とは何もなかった。彼女は処女を彼に与えた満足な結婚の夜の美しさを回想しているかのように、端整な青い線をその横顔《プロフィール》の上に浮べていた。

 

 「哀れな朗かさ」という撞着語法。そして、「罪と罰とは何もなかった」という記述には一読して違和感を抱く読者が多いだろう。ふつうは「罪も罰も何もなかった」のように書くかもしれない。利一は、このように、あえて不自然な助詞の使い方をする。助詞が格を決定する日本語において、助詞を誤用することは冒涜である。しかしそれは美しさのための必然として破調せざるを得なかった言葉であり、あまりにもあやうい意味の均衡の上で独特の音楽的な響きを獲得している。花、青色、夜は全編を通じて繰り返されるモチーフとなる。

 

 そうして、今は、二人は二人を引き裂く死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗き合せているだけである。丁度、二人の眼と眼の間に死が現われでもするかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙って匙にスープを掬い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。

彼には横たわっている妻の顔が、その傍の薬台や盆のように、一個の美事な静物に見え始めた。

 

 体温を剝奪されたような人間の描写、ここでは輪郭だけが動いている。読者は、我々が見せられているものは劇ではなく、白い壁に抛げかけられた劇の影なのではないかと錯覚するかもしれない。彼らはなにか抗い難い力に動かされているのだろう、それは書くこと、利一の場合は、みずからを書かれたものに貶める力なのかもしれない。

 

 ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々として彼の視線を放さなかった。その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾のようにほの白い円陣を造っていた。

 

 これほどまでに完璧で精緻な月夜の描写はそうそうお目にかかれるものではない。

 

 病舎の燈火が一斉に消えて、彼女たちの就寝の時間が来ると、彼女らはその厳格な白い衣を脱ぎ捨て、化粧をすませ、腰に色づいた帯を巻きつけ、いつの間にかしなやかな寝巻姿の娘になった。だが娘になった彼女らは、皆ことごとく疲れと眠さのため物憂げに黙っていた。それは恋に破れた娘らがどことなく人目を憚るあの静かな悩ましさをたたえているかのように。或るものはその日の祈りをするために跪き、或るものは手紙を書き、或るものは物思いに沈み込み、また、ときとしては或るものは、盛装をこらして火の消えた廊下の真中にぼんやりと立っていた。

 

 ふつう、散文においても韻文においても、人物のうつくしさと風景の美しさはまったく異なる方法で描かれる。しかし利一の場合、両者に区別はない。

 

「あたし、あなたより、早く死ぬから、嬉しいの。」と彼女はいった。

 彼は笑い出した。

「お前も、うまいことを考えたね。」

「あたしより、あなたの方が、可哀想だわ。」

「そりゃ、定まってる。俺の方が馬鹿を見たさ。だいたい、人間が生きているなんていうことからして、下らないよ。こんなにぶらぶらして、生きていたって、始まらないじゃないか。お前も、もう死ぬがいい、うむ?」

「うむ、」と妻は頷いた。

「俺だって、もう直ぐ死ぬんさ。こんな所に、ぐずぐず生きてなんか、いたかない。お前も、うまいことをしたもんさ。」

 妻は彼を見てかすかに笑い出した。

「あたし、ただ、もうちょっと、この苦しさが少なければ、生きていてもいいんだけど。」

「馬鹿な。生きていたって、仕様がないじゃないか、いったい、これから、何をしようっていうんだ。もう俺もお前もするだけのことは、すっかりしてしまったじゃないか。思い出してみるがいい。」

「そうだわね。」と妻は言った。

「そうさ、もう大きな顔をして、死んでもいいよ。」

 

 生の否定を美しく記述することは本質的に困難である。しかし、それを為すために十分な力量が利一にはある。

 

 まもなくここで、疲れた身体を横たえるであろう看護婦たちに、彼は山野の清烈な幻想を振り撒いてやるために、そっと百合の花束を匂い袋のように沈めておいて戻って来た。

 

 看護婦たちが眠るのは、「壁に挟まれた柩のような部屋」ではなくて、実は海の底なのではないだろうか?

 

 彼には、あの砲弾のような鮪の鈍重な羅列が、急に無意味な意味を含めながら、黒々と沈黙しているように見えてならなかった。

 

 「無意味な意味」は「無意味」とはどう異なるのか? それは意味の存在を前提としているか否かである。動物の鳴き声は「無意味」であるけれども、人間が動物のように鳴いたら「無意味な意味」をもつことになる。彼は鮪が「砲弾のように鈍重」で「黒々と沈黙」していることに無意味な意味を感得している。彼は意思などもたない鮪に意味を期待している。ではその意味とは? それは彼の妻を殺そうとする明確な悪意である、あるいはそれは鮪の悪意ではなく世界の悪意である。鮪はほんとうに世界から妻に向けられた「砲弾」であるに過ぎないのかもしれない。

 

「あなた、あたしの身体をちょっと上へ持ち上げて、何んだか、谷の底ヘ、落ちていくような気がするの。」

 彼は両手の上へ妻を乗せた。

「お前を抱いてやるのも久しぶりだ。そら、いいか。」

 彼は枕を上へ上げてから妻を静かに枕の方へ持ち上げた。

「何んと、お前は軽い奴だろう。まるで、こりゃ花束だ。」

 すると、妻は嬉しさに揺れるような微笑を浮べて彼にいった。

「あたし、あなたに、抱いてもらったのね、もうこれで、あたし、安心だわ。」

 

 それを示す言葉のひとつもないのに、これほどまでに読む者の悲しみを誘うのは、愛する者の死という磨耗し切ったテーマではない。それはあらゆる技巧を駆使して絶えず死と重ねられ続けた花束が、いま最も単純なレトリックによって愛する者と同化したからであり、つまりは純粋に手法の貢献である。

 

 

 私はこの小説をほんとうに天国に持っていくために誦じた。私は何を読むときでも、何が書かれているかについてあまり興味を持つことができない。問題はどう書かれているかであり、利一が選ばざるを得なかった普遍的で退屈なテーマは、逆説的に彼の技巧の完全な痕跡となった。この傑作は限りなく詩に近いが詩であることは明確に拒んでいる。ここには、小説に特有の、確乎たる批評の精神が確かにある。

 

 

 

2023.12.1

テトラの本棚①ボルヘス『伝奇集』

 彼はこの反論の余地のない前提から、図書館は全体的なもので、その書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ━━その数はきわめて厖大であるが無限ではない━━を、換言すれば、あらゆる言語で表現可能なもののいっさいをふくんでいると推論した。いっさいとは、未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明、バシリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本のなかへの挿入、などである。

「バベルの図書館」

 

 世界文学史上最高かつ最有毒の書である。途方もない博覧強記、明晰かつ高密度な文体、幻想、推理小説の遺伝子、迷宮、書物、盲目。ボルヘスを飾る言葉はどれもが適当に見え、しかしまたどれもが不適当にも見える。短いこと。ボルヘスを語るために必要な言葉はこれだけであると私は信じている。読者にできる唯一のことは一般化することではなく、そこに刻まれた個々の言葉に眼を凝らし、不治の病として抱えて生きてゆくことだけだ。架空の天体についての百科事典の要約とその成立史をエッセイ風に綴った「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」、セルバンテスとまったく同一の小説を書くという試みに生涯を捧げた男の話「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」、夢のなかに人間を造り出す幻想譚「円環の廃墟」、世界の暗喩としての書物と迷宮「バベルの図書館」「八岐の園」、完全な記憶力を持つ男についての不完全な記録「記憶の人、フネス」、無名の芸術家の願いを神が聞きいれる「隠れた奇跡」、短編小説としての完成度は他の追随を許さない「南部」。本書のなかでもとりわけ私が偏愛するのはこれらの八編である。

 ボルヘスの魅力のひとつはそこに書かれた人びとの魅力である。彼らの共通点は多くはない。孤独であること、思索すること、困難な仕事を抱えていること、感傷主義的でない、乾いたかなしみと同居していること。たったそれだけで、ひとりの人間は書かれるに値する。

 

 南部鉄道の技師だったハーバート・アッシュの色あせていくかすかな思い出は、アドロゲーのホテルのむせ返るようなスイカズラの茂みや、多くの鏡がかけられた幻想的な内部に生きながらえている。生前の彼は、多くのイギリス人がそうだが、甚だしい非現実感に悩まされた。そして死後の彼は、生前すでにそうであったが、幽霊ですらない。(中略)数学の本を手にして、ときおり、消えていく空の色を眺めていた。

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」

 

 わたしは彼の方眼入りのノートや、黒い抹消や、独特の印刷上のしるしや、虫のような文字を記憶している。夕暮れどき、彼は好んでニームの場末の散歩に出かけた。ノートを一冊たずさえて行き、楽しい焚火をした。

「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」

 

 生まれ故郷の州の知事で、天文学占星術に通じ、経典のたゆみない注解者で、棋士で、高名な詩人で書家でした。そのすべてを棄てて、彼は一冊の本と迷路を作ろうとしたのです。圧政や、裁判や、そこここの寝台や、宴会や、さらに学問の楽しみさえ投げうって、十三年間も清狐庵にこもりました。彼が死んだとき、相続人たちが発見したのは草稿の山にすぎませんでした。

「八岐の園」

 

 しかし、私を捉えて離さないのはやはりイレネオ・フネスとヤロミール・フラディークのふたりである。眼に写るあらゆるものを記憶してしまい、それが絶えず精密に再生されてしまうイレネオ。彼はその天才によってなにかを得ることもなく、世界の過剰なイメージに押し潰されるようにして二十一歳でこの世を去る。この掌編については贅言を要しない。ボルヘス自身による「不眠のながながしい暗喩である」という言葉が必要十分な批評となっているからだ。「隠れた奇跡」のヤロミールはプラハに住む無名の劇作家、ユダヤ擁護の容疑でゲシュタポに捕らえられ、死刑を執行されることになる。彼はみずからの戯曲『仇敵たち』を完成させることだけを望み、神に一年間の時間を乞い、彼の願いは聞き届けられる。死刑執行の瞬間、時間は銃弾とともに静止する。彼は頭のなかで戯曲を書き続ける。

 

 彼はその戯曲を結末まで持っていった。あとはただ、ひとつの形容詞をどうするかという問題だった。ついにそれを見つけた。水滴が彼の頬からすべり落ちた。もの狂おしい絶叫が口をついて出、顔をそむけた。四重の斉射が彼を倒した。

「隠れた奇跡」

 

 ヤロミールが隠れた奇跡のなかで為した仕事は誰に知られることもない。それは本質的に純粋な芸術である。ヘンリー・ダーガーカフカが残したものは、結局他者の眼にふれることになった。しかし彼らの作品のように他者の手に委ねられることすらなく、著者みずからの手によって無言のうちに灰になった傑作は数えきれないほどあったはずだ。私は「隠れた奇跡」を読み返すたびに、書かれたものは読まれるべきではなく、燃やされるべき、忘れ去られるべきなのかもしれないという考えに取り憑かれることになる。

 ボルヘスの独特の世界描像は「バベルの図書館」に要約されているが、あらゆる作品の背後で重低音のように流れている。それは記号としての宇宙、夢としての生である。書物が世界に肉薄するとき、人間はみずからもまた書かれた存在であるという疑念を払拭することができなくなる。

 

 トレーンの学派のあるものは時間さえ否定する。現在は無限であり、未来は現在の願望としてしか現実性を持たず、過去も現在の記憶としてしか現実性を持たない、と推論する。べつの学派は、すべての時間はすでに経過しており、われわれの生は、ある回復不能な過程の、おそらく欺瞞にみちた不完全な記憶、あるいは淡い余映である、と断定する。さらにべつの学派は、宇宙の歴史━━そしてそのなかでのわれわれの生と、われわれの生のきわめて微小な細部━━は、ある卑賤な神が悪魔と通じるために書いた文章である、という。ある学派は、宇宙がくらべられるとすれば、それは、あらゆる記号に価値があるわけではなくて、三百夜ごとに生じるもののみが真実であるような暗号法である、という。さらにある学派は、ここで眠っていながら、われわれは別の場所で目醒めており、かくて一人の人間は二人の人間である、と断定する。

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」

 

 安らぎと屈辱を感じながら彼は、おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれを夢みているのだと悟った。

「円環の廃墟」

 

 (特に「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」においてだが)ボルヘスは芸術に対しても、ある種記号的な独特の見方を示唆している。芸術やそれに付随する問題は、人間の認識と思考の水準に対して表現の形態(詩、小説、絵画、演劇など)があまりにも複雑であるという原理に帰着する。例えば剽窃が罪とされるのはそれが故意であると断定できるからであって、なぜ故意であると断定できるかといえば、「二人の人物が独立に同じ作品を作る」という現象が、表現の複雑さゆえに確率的に否定されているからにすぎない。

 

 彼はべつの『ドン・キホーテ』を書くこと━━これは容易である━━を願わず、『ドン・キホーテ』そのものを書こうとした。いうまでもないが、彼は原本の機械的な転写を意図したのではなかった。それを引き写そうとは思わなかった。彼の素晴らしい野心は、ミゲル・デ・セルバンテスのそれと━━単語と単語が、行と行が━━一致するようなページを産みだすことだった。

「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」

 

 (トレーンでは)書物に署名があることは珍しい。剽窃の観念は存在しない。あらゆる作品はただ一人の著者の作品であり、彼は無時間かつ無名のものであると規定されている。批評がよく作者をでっち上げる。(たとえば『道徳経』とか『千夜一夜物語』のような)ふたつのことなる作品を取りあげて、それらをおなじ一人の作家のものであるとした上で、この興味深い文人の心理を誠実に推理する……。

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」

 

 また、合理的な思考をするということは、異なるものに共通点を見出し、一般化させるということに他ならない。つまり、考えるということは、あまりにも多様で複雑な世界から遠ざかり、敢えて視力をぼやけさせて曖昧に世界を見るということである。ならば、誰よりも精密に世界が見えている男が思考を不得手とするのは必然である。

 

 彼は苦もなく英語、フランス語、ポルトガル語ラテン語などをマスターした。しかし、彼には大して思考の能力はなかったように思う。考えるということは、さまざまな相違を忘れること、一般化すること、抽象化することである。フネスのいわばすし詰めの世界には、およそ直截的な細部しか存在しなかった。

「記憶の人、フネス」

 

 膨大なアルファベットが収められたバベルの図書館の個々の部屋は、無限の変数を抱えた世界の細胞のようにも思えるし、インターネットとの相似は不必要なほど頻繁に取り沙汰される。たしかに世界の構造について疑問を持ち、思索した経験のある読者にとって、ボルヘスの先見性や理論の緻密さは無視できないかもしれない。しかし、ボルヘスの真価は、そういったところには断じてない。あくまでそれは、僅か数葉にその運命を閉じ込められた明晰で寡黙な人びとが世界に対峙する態度であり、彼らが挑まざるを得なかった無謀な仕事であり、敗北の美しさであり、決して癒されない孤独とかなしみである。

 

 

2023.11.24