テトラの本棚②横光利一『花園の思想』

 

 

 

 彼は暫く、その眼前に姿を現わした死の美しさに、見とれながら、恍惚として突き立っていた。と、やがて彼は一枚の紙のようにふらふらしながら、花園の中へ降りていった。

『花園の思想』

 

 小説を一編だけ天国に持っていけるならこれを選びたい、それほど美しい短編である。はじめから終わりまで一文字の隙もない過剰なまでの技巧の結晶、詩にもっとも漸近した小説といってもいい。

 

 丘の先端の花の中で、透明な日光室が輝いていた。バルコオンの梯子は白い脊骨のように突き出ていた。

 

 花から突き出る脊の骨。骨が花に囲まれる光景に人が死を想起するのは、それが抽象化された埋葬だからだろう。バルコオンという文字の並び、響きにすら、絵画のような立体感がある。

 

 

 彼は妻の病室のドアーを開けた。妻の顔は、花瓣に纏わりついた空気のように、哀れな朗かさをたたえて静まっていた。

 ━━恐らく、妻は死ぬだろう。

 彼は妻を寝台の横から透かしてみた。罪と罰とは何もなかった。彼女は処女を彼に与えた満足な結婚の夜の美しさを回想しているかのように、端整な青い線をその横顔《プロフィール》の上に浮べていた。

 

 「哀れな朗かさ」という撞着語法。そして、「罪と罰とは何もなかった」という記述には一読して違和感を抱く読者が多いだろう。ふつうは「罪も罰も何もなかった」のように書くかもしれない。利一は、このように、あえて不自然な助詞の使い方をする。助詞が格を決定する日本語において、助詞を誤用することは冒涜である。しかしそれは美しさのための必然として破調せざるを得なかった言葉であり、あまりにもあやうい意味の均衡の上で独特の音楽的な響きを獲得している。花、青色、夜は全編を通じて繰り返されるモチーフとなる。

 

 そうして、今は、二人は二人を引き裂く死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗き合せているだけである。丁度、二人の眼と眼の間に死が現われでもするかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙って匙にスープを掬い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。

彼には横たわっている妻の顔が、その傍の薬台や盆のように、一個の美事な静物に見え始めた。

 

 体温を剝奪されたような人間の描写、ここでは輪郭だけが動いている。読者は、我々が見せられているものは劇ではなく、白い壁に抛げかけられた劇の影なのではないかと錯覚するかもしれない。彼らはなにか抗い難い力に動かされているのだろう、それは書くこと、利一の場合は、みずからを書かれたものに貶める力なのかもしれない。

 

 ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々として彼の視線を放さなかった。その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾のようにほの白い円陣を造っていた。

 

 これほどまでに完璧で精緻な月夜の描写はそうそうお目にかかれるものではない。

 

 病舎の燈火が一斉に消えて、彼女たちの就寝の時間が来ると、彼女らはその厳格な白い衣を脱ぎ捨て、化粧をすませ、腰に色づいた帯を巻きつけ、いつの間にかしなやかな寝巻姿の娘になった。だが娘になった彼女らは、皆ことごとく疲れと眠さのため物憂げに黙っていた。それは恋に破れた娘らがどことなく人目を憚るあの静かな悩ましさをたたえているかのように。或るものはその日の祈りをするために跪き、或るものは手紙を書き、或るものは物思いに沈み込み、また、ときとしては或るものは、盛装をこらして火の消えた廊下の真中にぼんやりと立っていた。

 

 ふつう、散文においても韻文においても、人物のうつくしさと風景の美しさはまったく異なる方法で描かれる。しかし利一の場合、両者に区別はない。

 

「あたし、あなたより、早く死ぬから、嬉しいの。」と彼女はいった。

 彼は笑い出した。

「お前も、うまいことを考えたね。」

「あたしより、あなたの方が、可哀想だわ。」

「そりゃ、定まってる。俺の方が馬鹿を見たさ。だいたい、人間が生きているなんていうことからして、下らないよ。こんなにぶらぶらして、生きていたって、始まらないじゃないか。お前も、もう死ぬがいい、うむ?」

「うむ、」と妻は頷いた。

「俺だって、もう直ぐ死ぬんさ。こんな所に、ぐずぐず生きてなんか、いたかない。お前も、うまいことをしたもんさ。」

 妻は彼を見てかすかに笑い出した。

「あたし、ただ、もうちょっと、この苦しさが少なければ、生きていてもいいんだけど。」

「馬鹿な。生きていたって、仕様がないじゃないか、いったい、これから、何をしようっていうんだ。もう俺もお前もするだけのことは、すっかりしてしまったじゃないか。思い出してみるがいい。」

「そうだわね。」と妻は言った。

「そうさ、もう大きな顔をして、死んでもいいよ。」

 

 生の否定を美しく記述することは本質的に困難である。しかし、それを為すために十分な力量が利一にはある。

 

 まもなくここで、疲れた身体を横たえるであろう看護婦たちに、彼は山野の清烈な幻想を振り撒いてやるために、そっと百合の花束を匂い袋のように沈めておいて戻って来た。

 

 看護婦たちが眠るのは、「壁に挟まれた柩のような部屋」ではなくて、実は海の底なのではないだろうか?

 

 彼には、あの砲弾のような鮪の鈍重な羅列が、急に無意味な意味を含めながら、黒々と沈黙しているように見えてならなかった。

 

 「無意味な意味」は「無意味」とはどう異なるのか? それは意味の存在を前提としているか否かである。動物の鳴き声は「無意味」であるけれども、人間が動物のように鳴いたら「無意味な意味」をもつことになる。彼は鮪が「砲弾のように鈍重」で「黒々と沈黙」していることに無意味な意味を感得している。彼は意思などもたない鮪に意味を期待している。ではその意味とは? それは彼の妻を殺そうとする明確な悪意である、あるいはそれは鮪の悪意ではなく世界の悪意である。鮪はほんとうに世界から妻に向けられた「砲弾」であるに過ぎないのかもしれない。

 

「あなた、あたしの身体をちょっと上へ持ち上げて、何んだか、谷の底ヘ、落ちていくような気がするの。」

 彼は両手の上へ妻を乗せた。

「お前を抱いてやるのも久しぶりだ。そら、いいか。」

 彼は枕を上へ上げてから妻を静かに枕の方へ持ち上げた。

「何んと、お前は軽い奴だろう。まるで、こりゃ花束だ。」

 すると、妻は嬉しさに揺れるような微笑を浮べて彼にいった。

「あたし、あなたに、抱いてもらったのね、もうこれで、あたし、安心だわ。」

 

 それを示す言葉のひとつもないのに、これほどまでに読む者の悲しみを誘うのは、愛する者の死という磨耗し切ったテーマではない。それはあらゆる技巧を駆使して絶えず死と重ねられ続けた花束が、いま最も単純なレトリックによって愛する者と同化したからであり、つまりは純粋に手法の貢献である。

 

 

 私はこの小説をほんとうに天国に持っていくために誦じた。私は何を読むときでも、何が書かれているかについてあまり興味を持つことができない。問題はどう書かれているかであり、利一が選ばざるを得なかった普遍的で退屈なテーマは、逆説的に彼の技巧の完全な痕跡となった。この傑作は限りなく詩に近いが詩であることは明確に拒んでいる。ここには、小説に特有の、確乎たる批評の精神が確かにある。

 

 

 

2023.12.1