テトラの本棚①ボルヘス『伝奇集』

 彼はこの反論の余地のない前提から、図書館は全体的なもので、その書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ━━その数はきわめて厖大であるが無限ではない━━を、換言すれば、あらゆる言語で表現可能なもののいっさいをふくんでいると推論した。いっさいとは、未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明、バシリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本のなかへの挿入、などである。

「バベルの図書館」

 

 世界文学史上最高かつ最有毒の書である。途方もない博覧強記、明晰かつ高密度な文体、幻想、推理小説の遺伝子、迷宮、書物、盲目。ボルヘスを飾る言葉はどれもが適当に見え、しかしまたどれもが不適当にも見える。短いこと。ボルヘスを語るために必要な言葉はこれだけであると私は信じている。読者にできる唯一のことは一般化することではなく、そこに刻まれた個々の言葉に眼を凝らし、不治の病として抱えて生きてゆくことだけだ。架空の天体についての百科事典の要約とその成立史をエッセイ風に綴った「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」、セルバンテスとまったく同一の小説を書くという試みに生涯を捧げた男の話「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」、夢のなかに人間を造り出す幻想譚「円環の廃墟」、世界の暗喩としての書物と迷宮「バベルの図書館」「八岐の園」、完全な記憶力を持つ男についての不完全な記録「記憶の人、フネス」、無名の芸術家の願いを神が聞きいれる「隠れた奇跡」、短編小説としての完成度は他の追随を許さない「南部」。本書のなかでもとりわけ私が偏愛するのはこれらの八編である。

 ボルヘスの魅力のひとつはそこに書かれた人びとの魅力である。彼らの共通点は多くはない。孤独であること、思索すること、困難な仕事を抱えていること、感傷主義的でない、乾いたかなしみと同居していること。たったそれだけで、ひとりの人間は書かれるに値する。

 

 南部鉄道の技師だったハーバート・アッシュの色あせていくかすかな思い出は、アドロゲーのホテルのむせ返るようなスイカズラの茂みや、多くの鏡がかけられた幻想的な内部に生きながらえている。生前の彼は、多くのイギリス人がそうだが、甚だしい非現実感に悩まされた。そして死後の彼は、生前すでにそうであったが、幽霊ですらない。(中略)数学の本を手にして、ときおり、消えていく空の色を眺めていた。

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」

 

 わたしは彼の方眼入りのノートや、黒い抹消や、独特の印刷上のしるしや、虫のような文字を記憶している。夕暮れどき、彼は好んでニームの場末の散歩に出かけた。ノートを一冊たずさえて行き、楽しい焚火をした。

「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」

 

 生まれ故郷の州の知事で、天文学占星術に通じ、経典のたゆみない注解者で、棋士で、高名な詩人で書家でした。そのすべてを棄てて、彼は一冊の本と迷路を作ろうとしたのです。圧政や、裁判や、そこここの寝台や、宴会や、さらに学問の楽しみさえ投げうって、十三年間も清狐庵にこもりました。彼が死んだとき、相続人たちが発見したのは草稿の山にすぎませんでした。

「八岐の園」

 

 しかし、私を捉えて離さないのはやはりイレネオ・フネスとヤロミール・フラディークのふたりである。眼に写るあらゆるものを記憶してしまい、それが絶えず精密に再生されてしまうイレネオ。彼はその天才によってなにかを得ることもなく、世界の過剰なイメージに押し潰されるようにして二十一歳でこの世を去る。この掌編については贅言を要しない。ボルヘス自身による「不眠のながながしい暗喩である」という言葉が必要十分な批評となっているからだ。「隠れた奇跡」のヤロミールはプラハに住む無名の劇作家、ユダヤ擁護の容疑でゲシュタポに捕らえられ、死刑を執行されることになる。彼はみずからの戯曲『仇敵たち』を完成させることだけを望み、神に一年間の時間を乞い、彼の願いは聞き届けられる。死刑執行の瞬間、時間は銃弾とともに静止する。彼は頭のなかで戯曲を書き続ける。

 

 彼はその戯曲を結末まで持っていった。あとはただ、ひとつの形容詞をどうするかという問題だった。ついにそれを見つけた。水滴が彼の頬からすべり落ちた。もの狂おしい絶叫が口をついて出、顔をそむけた。四重の斉射が彼を倒した。

「隠れた奇跡」

 

 ヤロミールが隠れた奇跡のなかで為した仕事は誰に知られることもない。それは本質的に純粋な芸術である。ヘンリー・ダーガーカフカが残したものは、結局他者の眼にふれることになった。しかし彼らの作品のように他者の手に委ねられることすらなく、著者みずからの手によって無言のうちに灰になった傑作は数えきれないほどあったはずだ。私は「隠れた奇跡」を読み返すたびに、書かれたものは読まれるべきではなく、燃やされるべき、忘れ去られるべきなのかもしれないという考えに取り憑かれることになる。

 ボルヘスの独特の世界描像は「バベルの図書館」に要約されているが、あらゆる作品の背後で重低音のように流れている。それは記号としての宇宙、夢としての生である。書物が世界に肉薄するとき、人間はみずからもまた書かれた存在であるという疑念を払拭することができなくなる。

 

 トレーンの学派のあるものは時間さえ否定する。現在は無限であり、未来は現在の願望としてしか現実性を持たず、過去も現在の記憶としてしか現実性を持たない、と推論する。べつの学派は、すべての時間はすでに経過しており、われわれの生は、ある回復不能な過程の、おそらく欺瞞にみちた不完全な記憶、あるいは淡い余映である、と断定する。さらにべつの学派は、宇宙の歴史━━そしてそのなかでのわれわれの生と、われわれの生のきわめて微小な細部━━は、ある卑賤な神が悪魔と通じるために書いた文章である、という。ある学派は、宇宙がくらべられるとすれば、それは、あらゆる記号に価値があるわけではなくて、三百夜ごとに生じるもののみが真実であるような暗号法である、という。さらにある学派は、ここで眠っていながら、われわれは別の場所で目醒めており、かくて一人の人間は二人の人間である、と断定する。

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」

 

 安らぎと屈辱を感じながら彼は、おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれを夢みているのだと悟った。

「円環の廃墟」

 

 (特に「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」においてだが)ボルヘスは芸術に対しても、ある種記号的な独特の見方を示唆している。芸術やそれに付随する問題は、人間の認識と思考の水準に対して表現の形態(詩、小説、絵画、演劇など)があまりにも複雑であるという原理に帰着する。例えば剽窃が罪とされるのはそれが故意であると断定できるからであって、なぜ故意であると断定できるかといえば、「二人の人物が独立に同じ作品を作る」という現象が、表現の複雑さゆえに確率的に否定されているからにすぎない。

 

 彼はべつの『ドン・キホーテ』を書くこと━━これは容易である━━を願わず、『ドン・キホーテ』そのものを書こうとした。いうまでもないが、彼は原本の機械的な転写を意図したのではなかった。それを引き写そうとは思わなかった。彼の素晴らしい野心は、ミゲル・デ・セルバンテスのそれと━━単語と単語が、行と行が━━一致するようなページを産みだすことだった。

「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」

 

 (トレーンでは)書物に署名があることは珍しい。剽窃の観念は存在しない。あらゆる作品はただ一人の著者の作品であり、彼は無時間かつ無名のものであると規定されている。批評がよく作者をでっち上げる。(たとえば『道徳経』とか『千夜一夜物語』のような)ふたつのことなる作品を取りあげて、それらをおなじ一人の作家のものであるとした上で、この興味深い文人の心理を誠実に推理する……。

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」

 

 また、合理的な思考をするということは、異なるものに共通点を見出し、一般化させるということに他ならない。つまり、考えるということは、あまりにも多様で複雑な世界から遠ざかり、敢えて視力をぼやけさせて曖昧に世界を見るということである。ならば、誰よりも精密に世界が見えている男が思考を不得手とするのは必然である。

 

 彼は苦もなく英語、フランス語、ポルトガル語ラテン語などをマスターした。しかし、彼には大して思考の能力はなかったように思う。考えるということは、さまざまな相違を忘れること、一般化すること、抽象化することである。フネスのいわばすし詰めの世界には、およそ直截的な細部しか存在しなかった。

「記憶の人、フネス」

 

 膨大なアルファベットが収められたバベルの図書館の個々の部屋は、無限の変数を抱えた世界の細胞のようにも思えるし、インターネットとの相似は不必要なほど頻繁に取り沙汰される。たしかに世界の構造について疑問を持ち、思索した経験のある読者にとって、ボルヘスの先見性や理論の緻密さは無視できないかもしれない。しかし、ボルヘスの真価は、そういったところには断じてない。あくまでそれは、僅か数葉にその運命を閉じ込められた明晰で寡黙な人びとが世界に対峙する態度であり、彼らが挑まざるを得なかった無謀な仕事であり、敗北の美しさであり、決して癒されない孤独とかなしみである。

 

 

2023.11.24